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「給与DXのエムザス」 給与とシステム両方を本業に約20年

社長とれんど考察

「 見抜く 〉選ぶ 」

2026年2月25日

■選挙のたびに残る違和感 
いよいよ総選挙まで一週間となりました。選挙のたびに私が感じるのは、「誰に投票するか」ばかりが語られ、「どう判断するか」という最も重要なプロセスが問われていないという違和感です。 街頭演説では耳触りの良い言葉が繰り返され、SNSでは切り抜き動画や刺激的なフレーズが拡散される。そこにあるのは、冷静な判断材料ではなく、感情を動かすための演出ばかりです。 かつては政策や制度の是非を比較し、長期的な影響を考えることが選挙の本質でした。しかし現代においては、投票という行為そのものよりも、有権者一人ひとりが情報をどう受け取り、何を基準に「見抜いて」いるかが、より厳しく問われているように思います。今回は、「選ぶ」よりも「見抜く」という視点から考察します。

■対人論証が支配する選挙 
選挙の現場では、「あの人は感じがいい」「男前だ」「庶民派だ」といった印象論が、政策や実績の検証を飛び越えて語られがちです。候補者が何を実現しようとしているのか、権限をどう使うのかよりも、人柄やイメージが先行してしまう。 これは論理学で「対人論証」と呼ばれる誤謬(ごびゅう)の一種です。本来は中身で評価すべき事柄を、「誰が言ったか」「どんな人に見えるか」で正当化してしまう。特に関西ではこの傾向が強く感じられますが、その結果、後になって「そんなつもりではなかった」と嘆く事態を招きます。その瞬間こそ、有権者の「見抜く力」が最も弱まっている時なのです。

■「笑い話」では済まされない現実 
合理的な理由が見えにくい選挙の強行や、制度の隙間を突くような社会保険料の削減など、中央からは「大阪のギャグ」と揶揄されるような事象も、地元では笑い話で済みません。 本来なら丁寧に議論すべき争点を、一気に畳みかけて判断を曖昧にする手法や、「賢く振る舞っている」と見せるパフォーマンス。これらを「面白い」「痛快だ」として受け入れているうちは楽しいかもしれませんが、その代償として制度への信頼は確実に削られていきます。「見抜く力」とは、エンターテインメント化された政治の裏側にある、冷徹な仕組みや意図を冷静に見る力でもあります。

■見抜けなかったツケは後から回ってくる 
選挙の場で見抜けなかった問題は、必ず後から統治の現場で表面化します。過去にも、期待先行で誕生した政権が一過性のブームに終わった事例は枚挙に暇がありません。 一昨年のH県知事選を巡る混乱も記憶に新しいですが、違法性が疑われる権力行使や説明責任の欠如は、突然生まれるものではありません。その兆候は選挙時点や組織運営の端々に存在していたはずです。嘘や誇張を見抜けず、感情論や雰囲気に流された結果、形式的には正当でも実質的には大きな疑問が残る政治状況が生まれてしまいます。 有権者は被害者であると同時に、判断主体でもあります。聞こえの良い物語の裏にあるリスクを見抜けなかった責任から、私たちは自由ではありません。

■企業経営と選挙はよく似ている 
政治の世界とは違い、絶対に潰れない保証のない企業経営において、トップ人事を誤れば組織が傾くことは常識です。「勢いがある」「話がうまい」といった理由だけで社長を選べば、ガバナンスは崩壊し、最悪の場合は倒産に至ります。 政治も全く同じです。選挙とは、国や自治体のトップ人事を決めるプロセスに他なりません。見抜くべきは「人柄」ではなく、「権限の使い方」「ルールへの姿勢」「責任の取り方」です。企業では通用しない甘い判断基準が、なぜか選挙では許容されてしまう。このズレこそが、後の社会的混乱を生む根本原因ではないでしょうか。

■AI時代にこそ求められる「見抜く力」 
政治家に限らず、職場や地域、生活のあらゆる場面において「見抜く」ことの重要性は増しています。 AI等の技術革新により情報が爆発的に増えた現代において、フェイクや扇動を見抜くスキルは必須の教養です。「何が語られていないのか」「誰が最終的に責任を取る設計なのか」「分かりやすい敵が作られていないか」。こうした批判的視点を持つ癖が、人生の判断の質を左右します。 グローバルな環境や厳しいビジネスの最前線では、実力や本質を見抜く目がなければ生き残れません。その厳しい基準を政治や社会に向けること。それこそが、私たちの社会を成熟させ、自分自身を成長へと導いてくれるのだと思います。